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Title

横笛といいましても様々な種類がありますが、私が使いますのは「篠笛」と「能管」です。
唄をうたうような篠笛、抽象的で感覚的な表現をする能管とどちらも魅力的な楽器ですが
この二種類の笛を使い分けて様々な演奏表現をいたします。

人間にとって最もシンプルでストレートな音の表現は肉声ですが、笛はそれに最も近い楽
器だと思います。息を使って奏でるためとても素直な楽器で演奏者の人間性や感情、精神
状態などがそのまま伝わります。それはとても素敵なことですが、怖いことでもあります。

つねに自分の心に素直な演奏を心がけたいと思いますが、そこに囚われすぎないで、本当
の意味での自然体で演奏がいずれ出来るようになればとても幸せだと思います。

以前に地唄・上方唄の先生の演奏を聴いたときにこんな感覚になりました。
その方は既に他界なさりましたが、おばあちゃま先生は声を張り上げるでもなく淡々と弾
語りをなさっていました。その演奏はどこまでも自然体で、なんの衒いも無く本当にただ
ただ声をお出しになっていらっしゃいました。その姿はとても美しく、その唄と三味線は
私の心の底まで真直ぐに沁み込んでくるようでした。素直に感動し、おもわず涙がこぼれ
てきてしまいました。こんな演奏を笛でしてみたい! 心からそう思いました。

笛に想う2

人は自分の声を客観的に聞くことができません。 その為、唄方は自分の声を練ってゆくの
はなかなか大変なことのようです。 笛の場合も同じです。 打楽器の場合は楽器の鳴る音と
して音そのものを聞きやすいのですが、笛の場合は息を使い唇に強くあてる ( 頭蓋骨に密
着させることになる ) 為に限りなく声に近いことになります。

私は自分の声を録音などして聞くことがとても嫌いです。自分の声がなかなか好きになれ
ません。 同じように笛の音もなかなか好きになれませんでした。 しかし、亡くなった師匠
寶先生のお話をうかがっているうちに、「日本の音楽にとって一番大切なものは音に非ず。
音によって自由に変化する間に内在するイメージが命 」と思うようになりました。なにを
演奏するにもその曲や手組にはっきりとしたイメージを持つことがとても大切なことです。
いつもイメージを大切に演奏していくと、音は自然と後からついてくるように思います。
音自体に縛られているうちは、本質がなかなか見えてこないように感じます。とはいいな
がら、なかなか音の呪縛から抜け出せません。

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笛に想う3

剣術や剣道の心得は邦楽演奏に通ずるものがあります。
例えば、目付け。
「遠山の目付け」といって相手に対峙したとき一点を凝視するのではなく、遠い山を見る
ように相手の体、全体を視野に入れるという教えがあります。
笛を吹く心持ちも同じで、三味線や唄、鼓といった他の楽器を大きく全体として曲の流れ
や各楽器の息合いを捉えることが大切です。
その瞬間の一点に囚われすぎると硬くなり、ぎこちない演奏に陥ってしまいます。これは
独奏のときも同じで、自分の演奏する曲を大きく全体で捉えたうえで、一間一間を大切に
演奏しなければ曲に心が現れません。

また「観見二つの目付け」といって対峙した相手の心の動きを見通す「観の目」と肉眼で
相手の現象を見る「見の目」があり、観の目を強く働かせ人間の行動の大本である心の動
きを見落とさないようにするという教があります。
これはかの宮本武蔵が五輪の書に述べていることですが、これを耳におきかえて考えるこ
とが出来ます。耳で実際に聞こえてくる音を頼りにし過ぎず、他の楽器や唄の演者の心の
動きを聴くことが大切です。それは分かり易いところですと、音と音の間の間取りや、掛
声などによく現れます。独奏も同じで、音を音としてではなく、心の声のような感覚で演
奏をすることが大切です。

笛に音無というのが私の胆の一つで、演奏者も聞き手も音を追っているうちは偽物。
音、或いは間に内在される心を聴くことができて初めて本物。
故寶先生も「笛のこころ」を座右の銘のようになさっておられました。

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笛に想う4

日本人はシンプルな物が好きです。
削ぎ落とされた美しさを物にも芸術にも求めます。
篠笛は女竹に唄口と手穴を開けただけのシンプルな楽器ですが、
見た目も竹の一節といった風情がとても美しい。
端を籐巻にしたりしますが、できれば何も巻かない素な竹の一節作りが一番良い。
管の中は幾重にも漆をかけたとても手の込んだ丁寧な作りですが、
外は極シンプルに仕上げることこそ粋な笛師の心意気です。
能管などは沢山籐や桜樺を唄口や手穴の間に巻きますが(これが能管の形と決まって
います)この感覚はとても大陸的な感覚です。
中国や韓国などの民族楽器によく見られる笛の装飾と同じです。
それが伝わってきて日本独特の楽器へと変化したことが考えられます。

演奏スタイルも然り。
腹に深い感情が湛えられていても、形は凛として端正。
無駄な所作はしないのが美しい演奏スタイルです。
思い入れが深ければ深いほど動きが無くなります。
哀しみが深すぎると涙が出ないのと同じような感じかもしれません。
素晴らしい日本人の感性だと思います。

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笛に想う5

歌舞伎の横笛で演奏する手組に「笙」という面白い手があります。この名前からも分かる
ように雅楽の笙をイメージした手組ですが、そこからはなれていろいろな表現の手段と
して使います。極単純な手で多様な表現をするこの「笙」は短い篠笛を使い、一つの音を
指を少しずつずらしながら長い息で吹くような手です。
故寶先生もとても大切になさっていた手で、福原流では他流と違い特殊な扱いをしてい
ます。篠笛は通常、三味線の調子に合わせて笛を持ち変えます。
そして唄う様に旋律を演奏するのですが、笙は能管の様に調子に構わず八~十本あたり
の短い笛を使いいつも同じような運指で演奏します。
つまり、旋律を吹く音による表現をしておらず、音を出し始めて吹ききる迄の間や、息継
ぎをする間取りや音を出している間の息の入れ方、また指のずらし方など、手としては極
シンプルですが、逆に其以外の全ての感覚を駆使して様々な表現をします。日本音楽の
もつ大切な様式が色濃く出ていると同時に演奏者に深く繊細な音楽性が求められる
難しい奏法の一つです。寶先生がよく例に挙げていた曲を紹介しますと~
「船弁慶」
静と義経の別れ際の場面。
静の心の動きを表します。
「正治郎連獅子」
子獅子を千尋の谷へ蹴落した親獅子が、子獅子が駆け上がって来るのを待つ場面。
深山の静寂を表します。
「賤機帯」
狂女が子供の行方を舟人から尋ねる為に、掬いようもない川面の桜の花弁を網で一心に
掬う花掬の場面。
三味線の合方にのせて打楽器では賑やかな手を打ちます。
(狂女の様子を見ながら囃し立てる舟人を表す)
それに対して笙は狂女の心と哀れで悲しくも美しい様子を表します。
以上の三曲が先生おすすめの笙です。
この他にもまた違った表現をする笙がたくさんあります。
例えば「松の翁」
素晴らしい景色の庭を表す合方に吹き込みますが、やはり風景描写的な扱いをします。
庭の端から少しずつ景色を楽しみながらゆっくり移していく視線のような表現をします。
また常磐津「羽衣」などでは天人が天界の音にのって舞を舞う場面ですが、
これは元である雅楽の笙のようなイメージで吹きます。
天から響き渡る音や、まるで時間の流れが止まってしまったかのような空間をふわふわと
舞う天人の様子などを表します。

本当にいろいろな場面においていろいろな表現をするとても難しく面白い手組です。
この様に曲の大切な場面に染み入るように関わっていくのは笛の醍醐味ですね。

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笛に想う6

能管にはちょっと特別扱いの音があり、演奏中に使用する音の中で最高音のこの音は
「ヒシギ(日吉)」とこの一音にのみ名が付けられています。
悲鳴のように甲高く、楽器から絞り出されるようなこの音のことを、ある作家さんが
「脳天を鉄片が突き抜けるような…」とおっしゃっていたのをよく思い出します。
演奏者もヒシギを吹くときには息を吹き込むと言うより、身体中の気を絞り出すよう
な感じに出します。
精気をあの小さな楽器「能管」の中に一気に吹き込むこ とにより、楽器がそれを受け
共鳴し辺りの空間に鳴り響くのです。そんな音であるだけに気力、心がとても大切に
なります。
能管の習い始めのころはまずこのヒシギがなかなか鳴ってくれません。
しかし息の使い方が上手くなってきますとだんだん鳴るようになってきて、やがて
普通にヒシギも他の音同様に自在に吹けるようになるのですが・・・
突然鳴らなくなってしまうことがあります。
極度の緊張を強いられるような舞台などでは特にそうです。
ヒシギは音を出しているというより声ではなく能管で叫んでいるようなものですので
心が折れてしまうと急に鳴らなくなってしまいます。
しかしそれが本物のヒシギではないかと。心の叫びのようなそんな音で あるべきだと
思うのです。

お弟子さん方の話に、
「家で練習している時にはちゃんと出ているのに、本番や稽古で先生の前に出て吹くと
急に鳴らなくなってしまいます。どうしたら出るようになるでしょうか?」
こんな相談を受けることがしばしばありますが、これは本物のヒシギを出そうとして
いる結果ですね。ですから出なくて落ち込むより、「正しいヒシギを出そうとしている
のだ!」とポジティブ思考にもっていけるといいですね。
自分も努めてその様な思考になれるようにしたいといつも思うのですが、これがなか
なかそうはいかないものです。トホホ…

知人の笛好きな脳神経外科医がヒシギを聞いた人の脳波を測 定したらしいのですが
何やらトリップ状態を誘発するような波形が表れるようです。
「やっぱり凄い音だよ~!」
と言っておりました。

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笛に想う7

演奏をする際にどのような心持が必要か…
和合同不という言葉がありますが、
同じにならない事、それはそこが出発点だからです。
単旋律音楽の表現は皆同じ動きをすることが始まりで、
心の動きに従って揺れたりずれたり省いたり増やしたりする事が単純な表現となります。
同調し、響き合う表現は極西洋的なもので古典を演奏する時には全く無い感覚と言え
ます。では、和するとは?
その心を表す言葉で最近とても気に入っているものがあります。
「慮る」
相手の心を察する、感じることこそ和することかと思います。
此れこそ古典演奏時において最も大切な心持だと確信しています。
日本人がとても大切な心として育んで来たこの謙虚な心は日常生活では当たり前のこと。
そして今や伝統文化と言われる全てのものに息づくものです。
しかし、この「慮る」ということが最近の日本人にはとても希薄になって来ているように
感じます。その心が演奏から無くなってしまった時には、ただただ自己主張をぶつける
ばかりの幼児の喧嘩を社会人がしているような、浅いものになってしまいます。
このままこの大切な心を失ってしまうのでは…と心配です。
なんとかしたいと思っておりますが、急には変わるはずもなく近いところから少しずつ。
自分もいつもこの心を持ち続けたいと思っております!

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笛に想う8

笛の習い始めの頃、曲を覚えるということがとても大変でした。
附けを出さないで吹けると思っても、いざ先生の前に座ると頭から曲がとんでしまい…
暫らくそんな感じでした。
何度も何度も吹き込んで少しずつ諳んじて演奏できる曲を増やしていきましたが、
その中でも自分が自然に吹けるものと、いつも上手くいかないものとがあり、それが
好きな曲と嫌いな曲に分かれていきました。

しかし、いつも好きな曲ばかりを演奏することはできません。
演奏を生業としたとき、好きな曲でも自分の思いと全く違った演奏を求められることも
あります。
この矛盾による心の葛藤は音楽と真直ぐ向かい合っている者は必ず抱えるものです。
ずっと、悩んだ時期もありましたが此のところはどんな曲でも演奏前に好きになる
ようにしています。
どこかに好きなところを発見してそこから好きな心を広げていきます。
この様に曲を好きになると覚えるのも早くなり、演奏も楽しくなります。
また一つの曲に対する解釈も様々あると考え、自分から様々なアプローチを進んでして
みることで、どんな要求のなかでも自分を見失わない演奏が少しずつ見えてきました。

楽しみで笛を稽古する場合は自分の好みだけでよいと思います。
が、うまくいかないなと思った時はこのように曲の事をもっと好きになってみると
よいかもしれません。

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笛に想う9

演奏者は旅人。
先日、同い年の演奏者であり友人でもある連中と食事をする機会がありました。
この道に飛び込んですぐに知り合った同期生。
あれからもう30年という年月が過ぎ去り、其々の道に生きてきた友人はおじさんになり
若い学生時代とは違った深い想いを音楽に対して持っていました。
初めはたわいも無い話で楽しんでいましたが、いつの間にか芸談になり気が付けば
6時間も話し込んだのでした。そんな話の中で改めて思ったこと。
笛を吹くことはとても嬉しく愉しいことですが、時に打ちのめされ挫折を味わうことも
また辛く悲しくなることもあります。でも、今の自分には笛を吹くことしかないし
それしか出来ません。
何の為に演奏しているのかと、ふと考えることもありますが、生業としていることとは
別に演奏そのものに生きている、それが自分の生の証であるように思います。
素晴らしい演奏者や素晴らしい心や技を持った方々との出合いと別れを繰り返し
自分が本当に素晴らしく大切だと思うものを見付けては追いかける。
見付けたと思ってもその刹那消え去る儚いものをいつも、いつまでも追い続ける。
そうなのです。演奏者はそんな形も無い曖昧で儚いものをずっと探し続ける心の
旅人です。

格好よく言ってみましたが、裏を返せば身勝手で廻りに迷惑をかけながら生きている
ということですが、「それを自覚して感謝の心をいつも忘れないことが肝心だ」と
比叡山でお話を伺いました。
ホントですね、有り難うございます!

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笛に想う10

笛は孤独な楽器。
歌舞伎音楽において打楽器全般と笛のことを纏めて「鳴物」とよびます。
この様に笛は囃子の中に含まれた楽器の一つとなっております。
能楽囃子とは違い歌舞伎囃子の場合、鳴物に含まれる楽器は全て演奏しなくては
なりません。しかし笛だけは別です。
その昔は笛も含まれていたのですが、昭和に入ったころから徐々に別扱いとなって
きました。故四世寶山左衛門師の功績はとても大きいのですが、もともと笛にある
孤独な特性もその要因になったと考えております。
学生時代は勉強会などの曲をよく仲間と一緒に練習しました。これは一人で練習する
ことの出来ない演奏感覚を養ったり、曲に対するいろいろな人の考えを直接聞いたり
感じたりすることのできる大切な時間でした。
しかし、この練習でよく感じていたことが一つありました。
「笛は孤独な楽器だ…」ということです。
練習に熱が入ってくると三味線と唄は互いに激しい意見のぶつけ合いを始め、囃子は
小鼓、大鼓、太鼓の打楽器でやはりお互いの考えや息を確認したりぶつけたり。
練習に熱が入れば入るほど笛吹きは蚊帳の外となりがちです。
笛吹きとしては勿論、他の楽器や唄の考えを聞いて一緒に練習するのですが、自然と
そのような形になるのです。自ずと笛吹きは曲に個人的なアプローチをする部分が多く
なってくるわけです。囃子の手組も打楽器のみで成立するので笛吹きを交えず話が進む
ことがよくあります。また笛は唯一のメロディー楽器として演奏するので感覚も特殊な
部分があるように思えます。
しかし私はその孤独な感覚が嫌いではなく、客観的に他の演者の話を聞くことが結構
楽しくなりました。また、皆で一つのものを共有して演奏する感覚もとても好きです。
両方の感覚がバランスよく内在されることがベストですね。
つまり、ここで気を付けなければならないことは、独りよがりの演奏や感覚、考えに
なってはいけないということです。
全ての演奏に通ずることですが、笛吹きは特にそこに陥りやすい環境にあるという
ことです。
私もいつも心に留めている大切なことの一つです。

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笛に想う11

音の揺れのことをビブラートですか?っと尋ねられますが、全く違うもののように
感じております。西洋音楽で使われますビブラートは、基本的に音を豊かに響かせたり
音に色づけをしたりと、音楽表現をするための音そのものに音程の振動のような揺れを
与えてより音楽表現を幅広いものにします。
では、日本の笛の場合は? 心の動きが音に変化を与えたものと言えます。
一つの音への思い入れが強くなると、そのエネルギーが一所に音を留めておけず揺れを
起こすのです。このように根本的に音の揺れに対する感覚が違います。

西洋音楽では音を一定の幅で揺らすための練習をし、常に正確なビブラートを使用でき
るようにしますが、日本の笛の場合、感情の揺れが音の揺れとなるので特に練習はしま
せん。感情は常に揺れ動く為、一定の幅で揺らしては逆効果となるのです。
音程も含めて常に 感情にしたがって揺れ動き続ける音が日本の笛独特の音作りのよう
に感じております。

これは打楽器のトレモロとヲロシの違いにも通ずると思います。

一つの音を長くのばすということは、その音を長く吹くことで何かを表現するのでは
なく音へ深い感情、思いを入れているということですね。

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笛に想う12

最近バンジョーのプレイヤー「ベラ・フレック」の曲を聞いています。
長男に薦められて聞いてみましたらこれが面白い演奏で、民族楽器を多用してます楽器
構成も興味深いですね。
若くして亡くなられた浪曲師の国本武春さん、以前に舞台をご一緒させて戴きましたが
三味線を実に軽妙に弾きこなされるの聞きこれは何か他の楽器もなさっているなと思い
よくよくお話を伺ってみますと、バンジョーをかなり弾かれるとの事でした。
そんなことも思い出しながら心地よいバンジョーの音を聴いております。
このべラ・フレック率いるバンドが「べラ・フレック&ザ・フレックトーンズ」という
ちょっと微笑みを誘う名前で、バンド名を見ただけではCDを購入したり曲を
ダウンロードしたりしないかもしれませんね(笑)
 
このバンドのベーシスト「ヴィクター・ウッテン」という方が先に来日したようで、
その折に彼と会ったベース弾きがベースの上達のコツはなんでしょう?と聞いたところ
彼はにこやかにこう言ったのでした…「グルーブだよ!」っと彼が来ていたTシャツに
書かれた文字を指さしながら。
グルーブとはあいまいな言葉で受け取りにくいのですがノリといいますか、感情の起伏
(心の機微のようなもの)だと私は思っております。
テクニックは練習でいろいろと習得していけますが、なによりもそのグルーブが大事だ
とヴィクター・ウッテンは言ったのです。
 
その話を長男から聞いたときに、そこのところは我々と同じなのだと感じました。
心の機微が無ければ張りぼての演奏です。テクニックはそれを表現するための一つの
手段でしかないのです。
 
演奏に生きる人達は演奏が出来る間が現役演奏家ということになります。
特に伝統音楽の世界はそれが長い。しかし歳を重ねるごとに身体は衰え、テクニック
は維持することも難しくなります。
心を練り続け、音楽にその機微を練り込めることができるような演奏家だけがいける
ステージが存在していうように感じます。
いつかそのステージに辿り着けることを夢見て!

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笛に想う13

我々の間(少なくとも歌舞伎音楽の世界)では楽器のことを「道具」と言っております。
音を奏でる物として楽器というのが音楽の世界では一般的ですが、通常の会話にも
例えば「大切なお道具を…」などといったように楽器ではなく道具とします。
代々の家系に育った者ではない私には初め違和感のある言葉でした。 学も浅い私には
道具という言葉があまり良いイメージでなかったこともあり、 何故楽器と言わないの
だろうか?音を楽しむ器としたほうが分かりやすいし、なんだか大切な物のように感じ
ると思っておりました。
しかし、よくよく思い起こしてみますとこの言葉は我々の世界だけではなく茶道や華道、
あるいは武道の世界でも使われております。
お茶の世界の茶碗や茶入など、お花の世界の花器、武家の刀や槍などの武器や甲冑みな
道具とよび魂の宿る大切な物として扱っております。

この様に音楽を音を使った道、一つの求道と考えその道を成す為に備える物として
捉えるのでしょう。そう考えますと、とても素敵な言葉に思えて来ました。
これこそ楽器に対する日本人の想いがとてもよく出ている言葉なのだと・・・

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笛に想う14

洋楽器の中でバイオリンなどの弦楽器は銘器と言われる特別な楽器があることは有名で
すね。和楽器にも銘器と言われるものが沢山あります。
和楽器の場合、逆に弦楽器は消耗度が激しくなかなかこの様な楽器はありません。
銘のついた箏や三味線を拝見し、演奏も聴きましたが枯れすぎて現代の演奏に使うには
ちょっと難しい感じでした。そのため自然に演奏なされるには古い銘器にあった曲が作
曲されるなど、特別な演奏準備が必要に思えます。

しかし、囃子の楽器は古くは室町時代のものが美しく残っており、現代の演奏にもその
まま使っても問題ないのです!その中にはやはり銘器と呼ばれるものが沢山あります。
鼓も笛も作者の系統で大きく分かれており、その中でずば抜けて素晴らしいものには
「銘」がつけられています。特に笛には多いようですね。これは息を吹き込む楽器だか
らかもしれません。息とは霊魂にも似たものという考えがあるようですね。
例えばくしゃみをすると魂が抜けて寿命を縮めるため真言を唱えて魂を留める呪いをし
たりします。この息を吹き込むということは魂を吹き込むということになるわけですね!
ですので特別な思いのある笛には日本刀のように様々な「銘」を付けるということだと
思います。私も「大雷神」というもの凄い銘のものや「雪夜」や「磯千鳥」といった美
しい「銘」のものなど、素晴らしい笛を拝見させて戴いたことがあります。

日本人は特に物に名を付けることを好むように感じます。
名を付けることで楽器を人のように…もっといいますと神様のように扱わせて戴くのです。
長い時を経て大切に扱われてきたものには本当に何かが宿っている様にも感じます。
修理がされていても、それはそれはとてもとても美しく心惹かれる風合いを備えたこれら
の銘器は、吹き手を選ぶのかもしれませんね!

私が吹かせて戴いてます笛は名も無いものですが、私と縁があって偶然出会った大切な
楽器で、私自身とても気に入って吹き続けております。
この楽器も大切に何代にも渡り吹き続けられるとそんな風格をいつの日にか備わり先輩
銘器の仲間入りができるかも・・・などと愉しい妄想をしながら一緒に過ごしております。

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笛に想う15

日本の伝統的な音楽の様式を考えた時に先ず「単旋律音楽」ということがあります。
能楽に至っては歌う旋律すら削って吟ずる謡や語る様な能管の手になっていますが、
唄系の三味線や筝曲等は完全に単旋律音楽として深められました。
雅楽の場合、笙などに和音の様な音の重なりがありますが、これは大陸音楽の
名残だと思われます。

私は三味線音楽の笛吹きですので、そのジャンルで考えてみますと単旋律であるが故に
出来上がってきた表現が沢山あります。
先ず音を考えてみますと、これはどう考えても和声で音楽表現をするには無理があります。
どの楽器も雑味の多く含んだ音で美しい和音の響きを得ることに適していません。
三味線の「さわり」や能管の「のど」など雑音発生器を取り付けていると言えます。
この音では音に幅が出過ぎて音程がはっきりと定まりにくいのです。
しかしこのような「さわり」の多い音を日本人はとても好みます。
それはまるで風がなる音や、水のせせらぎの音や、或いは虫や鳥の鳴く声のような心地
よい音なのです。この様な自然の音を楽音として使っているのも大切な様式の柱です。

旋律的な表現でみてみますと、ずらしたり揺らしたり省いたり増やしたりと元の旋律に
対して遊ぶような表現をします。三味線でいいますと「替手」や「上調子」の様な表現です。
ここには和声的な響きの表現は全く無く、その殆どが間のあらゆる方向への伸縮による
表現と言えます。面白い表現ばかりですね。

しかしどうして西洋音楽の様な響きによる表現をしてこなかったのでしょう?
音楽が生まれてきた風土にようるのかもしれましせんね。
ヨーロッパは石造りの住まいや教会の中のように残響がとても長い空間で生活しています。
音と音との重なりに豊かで美しい物を感じ、そこに表現を求めていったのでしょう。
それに対して土や紙といった響きを削ぐような素材の中で生活をしてきた日本人には
残響の感覚は薄いですね。その為、単音その音そのものに意味を感ずるような表現、
もっといいますと、音を単に音と捉えずもっと空間的なものとしたと考えられます。
外(自然)との隔たりの薄い空間ですので、人間の発する音以外のもの…
自然の中にある自然音に耳を傾けることも自然にしてきたのでしょう。
日本音楽の中には自然そのものが生きていると思います。

様々な民族の風土、風習があり其々の中で育ってきた音楽。
西欧と比べただけでもこのように違いがハッキリしている部分が多い。
一括りに考えることは不可能なのですね。

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笛に想う16

お稽古(レッスン)のこと…
師匠の寶先生がお亡くなりになって随分と時が経ちました。
笛吹きになろうと決めた私が寶先生にいただいた稽古を思い起こしながら「現在の自分が
どのような考えでいるか」ということを少し。

お稽古では師から曲の手組や内容など、基本的な演奏の形を教えて戴きます。
その後は自習して曲を覚えたり、自然に演奏できるようにしたり又、師のような音使いや
ニュアンスを真似て、それに近づこうとしたりします。
出来、不出来や覚えるまでの時間は個人差がありますが、教えを受ける側としてここまで
は自分で頑張るしかない部分です。しかし大切なことはこの先です。
教えて戴いたことをそのまま演奏するだけではなく、そこに自分の考えを持つことです。
(勝手にいろいろと考えを巡らすのではなく、師が教えてくださったことについて考える
ということです)

師はこう仰ったが、それは何故だろう?
師はこの部分をこう演奏しているがどうしてだろう?
他の演奏者は吹いているのに師はこの部分を吹いていないのは何故だろう?
等々。

それを解らないこととして師に伺えば必ず答えてくれますが、初めのうちは自身の人生
経験が浅いため師の考えや仰ることの真意がなかなか理解できず苦しみます。
しかし、失敗を繰り返しながらも諦めず、石にかじり付く思いで頑張っていますと突然、
師の言葉の真意が閃いたりするのです!
記憶の奥底に眠っていた師の言葉が突如蘇ることもあります。
これはただ繰り返し練習するだけではなく、いつも頭の片隅に演奏のことを考えている
自分がいなければ起こりえないのです。
その瞬間はまるで叢雲が風に流され顔を出した月の光に煌々と照らされるような心地で
す。

自身の未熟を知り、自らの意志と考えで思い悩み続ける人にだけ見えてくるものが確か
に存在します。お稽古は、そのきっかけとなるものだと考えます。

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笛に想う17

亡くなられた先代の望月朴清先生と先代の杵屋勝三郎先生は大親友で、お正月には必ず
朴清先生が勝三郎先生宅へごあいさつに訪れ、そのまま長居となり話し込むのが恒例だ
ったようです。
いろいろな話になるのですが、後進の演奏家たちのことになり「あいつはなかなか見ど
ころがある」「あいつは最近だれてきてる」等々と言い合うのだそうです。
しかし最後に必ず「あいつはいい!人が良いからね」「そうだね、あいつも人が良いか
らな」「良いやつだよな~」といったことになったようです。毎年同じ話を繰り返して
盛り上がっていらっしゃったようですね。

そんなお二人の素敵な関係を「良いものだな~」と思うのと同時に、やはり演奏は人間
だなと確信するわけです。お二人の先生方も酔ってそんな話になるのではなく常に
「芸は人だからな!」とお弟子さんたちに仰っていたと聞きました。
どんなに技術で覆っても生身の人が奏でるものですので、為人と人柄がそのまま演奏に
出るものですね。生来そなわったものは色として、それにコクと深みをあたえるために
人間力を養わなければ素敵な演奏は出来ないと思います。

そしてなにより気付くことが必要です。
演奏者にとって音を出すための工夫や音への拘り、音を使うための工夫などのテクニック
は表現に必要不可欠のものですが、心を…自分自身とそこから繋がる全ての物を身体から
少しだけ出すための技術に過ぎないことに気付かなければなりません。
言葉では薄っぺらな感じになってしまいますが、これは自身で掴まなければ分からない
感覚だと思います。
そこに気付いたら急に視野が広がり愉しさも深まります!

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能管

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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